スラムを見よ。


改善について、建築家がとらえられる限界をこえてしまうよう、評価できない特質は、持続する余地がなくなっている。
いまやわれわれは、不潔や乱雑による不都合さに代わって、衛生的な退屈さを得た。物質的にはスラムは(たとえばオランダでは)なくなったが、しかに何がそれに取って代わったというのか。どこにもまとまりがなく延々と続くだけで誰がどこに住んでいるということには誰も関心をもっていない。最近は残らず消毒されたが。が、しかし市民は将棋盤の上の消毒された駒であり、将棋をする人ではない。だから挑戦することはないし、試合も対話もないのだ。

スラムはなくなった。だが精神に食い込んでいるスラムを見よ。

もう一度我々が新しい都市、あるいは最近の住宅開発を一見するだけで、精神がどの程度埋没されてしまったかが認識されよう。建築家たちは、そこにひび割れや裂け目を残してはいない。彼らは、角を曲がったところにある不都合な事、不測の出来事、自然発生的な作用、予定外の騒動、予測できない危険など、それらについて懸念しているにもかかわらず、場所に関する感覚をまったく追い出してしまった。
彼らは、都市計画という真空掃除機で細菌を根絶するために、すべてをまっ平らにしてしまった。 つまり建物をこぎれいな表面(その両側は空虚以外のなにものでもない)の付け足しによるつながりにしてしまったのだ。(私にはアメリカで見たこのような例について適当な言葉を見つけるのは難しい。)実際に彼ら空虚さを目指して去勢するような事をやっているにもかかわらず、そのような建築家が空間について熱心に語ることはいったいどういうことだ。
ヴァン・アイク

The Graduation Works Exhibition 2011

第59回 東京藝術大学卒業・修士作品展 美術学部 大学院美術研究科修士課程

2011年1月29日(土)-2月3日(木) 会期中無休

9:00-17:00(入場は16:30まで)

会場 学部―大学構内

大学院―大学美術館・大学構内

主催 東京藝術大学

観覧料 無料

いつもながら直前ですが
今週、土曜です。

僕の展示は総合工房棟1Fオープンアトリエにあります。

今年は、例年の展示会場となる都美術館の改修のためすべて学内での展示です。
普段入れないようなところにも展示があって、面白いのではないかとおもいます。
(仮設の壁とかで、どうしようもないところはありますが)

 

野菜の画に

こんなものをかいて何になる

そういう人があるかもしれない

しかしかくのが楽しく

見るのが楽しいひとがあるから仕方がない

自然からあたえられた

人間の食物、

人間の喜び、

私はそれを尊敬する。

君知るか 野菜の美

君知るか 根の美

美を知ることの何ぞ嬉しき、

自然がいかに根を大事にしているかは

芋類を見よ。

半年で小さい種が

よくもこんなに大きくなって

人間の食物になるかと

南瓜を見ると我は驚く。

我は生命の内に充ものを愛す

生命内にみつるものは美なり。

自然はいろいろのものつくる

へんてこなものをつくり

不思議なものをつくり

よくも美しきものをつくり

味の深いものをつくり

平凡に見えてすばらしいものをつくる

自然と人間の協力

天与のものを生かすのは

人間の得意な所であり、えらい所である。

その偉さを 野菜を見ると私は感じる。

自然の傑作を見

感心し讃嘆し

それを謹んで描写すそのこと嬉し。

武者小路実篤

さて。僕たちの作品は

種たり得ても

根や花となり得たのか。

だんちく

七レンジャイのみなさま。

300個了解。電ボールもいいと思う。
プレゼンに向けなんとなく。今思うところを書いてみようとおもいます。
すでにめんどくさくなっているので、途中でやめるかもだけれど。
_
今回の一番の面白さは。「ダンボールによってできる空間」というよりも
「ダンボールによって空間をつくることによって生まれるさまざまな関係」だと思います。
もちろんそれは僕達のメインコンセプトももちろん含めたうえで
◯一日10人以上があつまって、泣きそうになりながら、つくった箱自体にのこる思い出や。
◯そういう空間ができたからこそ、生じている。アーティストの作品。◯番組展示のありかた。しいてはそれよって起こる番組自体の変化。◯普通ありえない実物をつかった、スタディー。それによる300個の追加発注。とかね。
_
そんなダンボール同士に単純ではあるけど、ストーリー(流れを読みやすくする、空間自体の特質も明確にする)を生むための7福神はひとつのデザインであるとおもうけど。
今回の300個発注による施工もせっかくなら。「めざせ777個」とかいって。展示中ずっと作り続けていて。見に来た人に手伝ってもらう。さらには名前を書いてもらって、もしかして最後にはあげるとか。完成して、完結した状態での展示よりも。あと300個が増えることの可能性を想像させることができるとおもうので。 あまり急がなくていいきがします。むしろ、今日もメールでおくられたゴールをみんなで共有する。
想像の余地をあたえることによって、今のダンボール状態がうごめいていく状況を意識させるとか。
ピンチはチャンスというかピッたりだと思います。

中井くんの反論も、前日にぎりぎりスケジュールで、無理を覚悟で追い込むというスケジュールは確実に他(展示、作品、オープニング)がイッパイイッパイになるなかで、それを包み込むべき建築がまだ、完成していない。というのは少し違うかなと思うので、同意ですが。
プロセス型ならありかなーって感じ。
逆に中井君に反論で、もしくかするともっと凄くなる可能性があるのであれば、遊んじゃおう!アジトだしさ!!

です。読みづらくってすいません。
_
今の場合の展示案としては、
◯当初のコンセプトなどの提示とともに。
◯物語としての7福神
◯ゴールとしての777verの模型
◯箱の作り方講座
って感じかな。

_
で、ちなみに明日以降(主に明日)は
◯椅子は明後日の午後届いて。カットもおわっているので、基本完成。
◯電気は買えたのかな?とりあえず工具もってくけど。
◯70個カット。
◯しながら、プレゼン話。

僕は16時から松戸で打ち合わせなので、3時くらいまでです。

です。

あまりにも適当な文章なので、とりあえず建築チームへ。

引いて足して引く

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フランス大使館で会場構成や、ドキュメントなり、裏方いろいろしています。会場づくりといっても、あまり目に見える形ではのこっていません。

前期展示をしていた、バンタンの展示で水色に塗った壁。いろいろ剥がされた床や壁。激しい落書きをと、解体にむけての展示のはずなのになぜか
現状復帰しなくてはならないという謎の制約のもとに。

基本的にマイナスの状態を0にもどしていく、
ただ復帰という形ではなく、一度変えられた空間の余韻を残す程度に。
調整する。
そんな行為の結果として現状になっています。
時間的に制約もあるのですが。

例えば、多くの部屋をめぐるゆえの見づらさ。それが僕はあまりいい点ではないとおもっていたのですが。迷路のような、、というような感想があったり。多分使用されていたときは、その全ての部屋を巡るわけではないので、
それぞれの部屋が違っている必要も、見やすい必要もないわけで。
そんな、素の空間を素直に見せているということで。そんなに悪い仕事ではなくなかなかよい、空間にしあがっていると思います。

他に、各作品、毎週末の各イベント。ドキュメントをポジティブにしていくあらたな姿勢。手がたりなけれがなんとしても、強引にでも、しっかり人をいれる。熱いお言葉、等々。木幡先生、故渡辺先生の手腕を身を持って体験し、尊敬し、成長していきます。 という久々の日記。

ノルウェイジェアン

ノルウェイ人とワークショップしてます。

Following the result of the individual studies from the 1st part of the workshop,the student will continue working in groups of four.The task is called’Temple for all peoplle’.which stands for architecture that trues to express and comment on,among others,the notion;coexistence of cultures,meeting of world religions and spiritual values in contemporarery sosiety.Current underlying theme is also war of culitisation,a term coined for the lack of communication between cultures,at the time being perhaps especiallyparts of christian and Muslim religions.

The focus in the project is to design a construction that is possible to build with 24student,the material available and having only three days of time.therefore the studens havve to find successful union of practical design and suitable architectural expression,and to learn that these are not opposite forces.

it is concept.and don’t think my spelling miss.

so
ofcouce we say only english.it is difficult but,very good experience

トイウカンジデ…ナンカヘンナカンカクナンデス。デンシャトカデ オシサンノカイワヲキイテモ サイショハ リカイデキナクテ アア ニホンゴカ!ミタイナ・・・
オモシロイ。

デス。ミンナ、ミニオイデ。。
321

見てね

あの、、、
1月からの一年生の予定ってどんな感じなのですか?先輩方

卒制後ってひまなんですか?旅立っていいんでしょうか?
旅立ちたいんですけど… 
 
是非先輩方かきこんでね

昨日急にエスキスが明日の三時ってきまりまし

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遇景より

正直言って、私は、そこに人の姿がなければ,場所の美しさに関心が持てない(がらんとした美術館はきらいだ)。逆に,顔やシルエットや衣服の面白みを見出すには、また、そうしたものとの出逢いの楽しみを味わうには、この発見の場所にもまた、面白みや味わいがあってほしいと思う。おそらく、だから、パラス座が私をひき人は言う。そうとも言えるが、しかし、私はそこに真の建築の昔ながらの力を認めるのだ。
歩く身体、踊る身体を美しくすると同時に、空間と建物を生き生きさせるあの力を。

今日では劇場は簡単に消え失せる。私が初めてベケットを見た小屋は今はもうガレージだ。他の小屋も映画館になったり,アパートになったりしている。、パラス座は生き延びた劇場だ。第一に,今後も催しが続くであろうし,第二に、元々(そして、幾度か)劇場であった名残りが全て保たれているからである。舞台、幕、バルコニー席,平土間。平土間は美しい木張りの床に変えられたが,立ったまま、あるいはクッションに座って、そこから踊りをみることができるであろう。赤いビロードで飾った広い通路。常に変わらぬ感動だ。階段をのぼり、光と影の交差する広い場所にでて、不意に,入信を許された者のように、舞台装置の聖域にはいる(ここのようにスペクタクルがホール全体で行われている場合にも、また、そういう場合にこそ、そういえる)テアトル。このギリシャ起源の語は『見る』という意の動詞に発している。パラス座はまさに見ることに捧げられた場所である。人はホールを眺めて時を過ごす。そして,ダンスから戻ると,また改めて見る。

パラスはよくバランスがとれている。つまり、人はそこで恐怖は抱かない(そこで眠りたいくらいだ)ということだ。劇場は小さすぎると,息がつまる。広すぎると心が凍る。パラスでは、上から下へと歩き廻ることができ,気ままに場所が変えられる。ーー一人一席が、値段による席が割り当てられているような他の劇場では、常におさえつけられている自由だ。しかし自由だけではいい場所にはならない。いくつかの実験によると,小さなハツカネズミは、何の目印もない,がらんとした場所に移されると,非常に不安を示すという。私がある場所で居心地がいいと感ずるには、実際、目印から目印へと行くことができ、片隅でも広い場所でもいつくことができ、彼の島で幸せにくらすロビンソンのように、一つの家からもう一つの家へと気楽に行ける必要があるのだ。パラスには,親しみのある場所がいくつもある。おしゃべりするためのサロン、ひとのもてなし、一服するためのバー手すりの列の上から、光りと体の織りなす盛大なダンスの光景を見下ろすための展望台。私は,何処に位置しようと,いわば,競技全体を見渡せるローマ皇帝の桟敷を占有しているような印象を受ける。

現代芸術の,日常芸術の重要な素材は、今日では,光ではなかろうか。普通の劇場では、光は遠くにあって,舞台は平たく張り付いている。パラスでは劇場全体が舞台なのだ。そこでは、光は深い空間を占め,その空間の内部で、役者のように活気づき、演技をする。複雑な,洗練された精神を持つ知的なレーザー光線が、抽象的な人形使いように、謎めいた軌跡、思いがけない運動を作り出す。円、長方形、楕円、平行線、ロープ,星雲、螺旋。注目すべきことは技術的達成ではなくその素材(動く光)とその実践における新しい芸術の出現である。というのは、それは、結局,大衆の前でではなく,大衆の真中で行われるという点で,大衆芸術であり,光のきらめきと音楽と欲望とが結合される全体芸術であるからである。つまり『芸術』が、過去の文化と断絶することなく文化的束縛の外で展開するのである。新しい消費様式に封印された解放だ。人は光りや影や装置を見る。しかしまた,同時に他のこともする、古代の劇場でも実践されていたことだ。

パラスでは、私は、この場所と生きた関係を結ぶため、別に踊らなくてもいい。一人きりで,あるいは,少なくとも,少し離れていれば『夢見る』ことができる。この人間みを持った場所では,私は、ある時、『皆,なんて奇妙なんだ』と叫ぶことができる。昔の緞帳が奇妙だ。フレンチラインの営利の広告が読み取れる。

パラスはよくあるようなナイトクラブではない。独自の場所に,普通は散在している快楽をひとつにまとめている。大事に保存された建造物としての劇場の快楽、見ることの快楽。「現代」の興奮。新しい技術による新しい視覚的刺激の開発。ダンスの喜び、人と出逢うかもしれないという魅力。これらの全てが集まって、きわめて古いあるもの、「祝祭」と呼ばれ「娯楽」と非常に異なるあるもの、すなわち、夜のひととき、人々を幸せにするための様々な感覚の装置全体を生み出すのだ。
新しい点はこの総合、全体性、複雑性の印象である。つまり私はそれ自身で充足している場所にいるのだ。この剰余物のおかげで、パラスは単なる事業ではなく、一つの作品でありこれを着想した人々は当然みずからを芸術家と感じるけんりがある。

その前 

2日は上野でエスキスwithますこ

長いねエスキス。早いね一年。どんどん進む。
周りも見えてきて、いいような気もするけど、なんか気になっちゃうよね?これでいいのかと、負けていないのかと、遊び過ぎでないかと、製図室でギター弾き過ぎでないかと。ごめんなさい、うるさかったら言ってください。
15人、これ以上エスキスが長かったら嫌だけど。井の中のなんたらにはなりたくない。やっぱり外へ飛びださなければ。
交流おまちしております。。。

芸大まじっく

なんて、ないよ。
あ~あ、魔法の杖を使ってみたかったな~
←すげっ

isseだって、変なとこで使っちゃうし…OT失格です僕ら。(TOT)

なんて、マジカルな話ではなくて。。。
芸大はどの一人を見てみても、彼らは凄くって。

連帯 するときは、計れないかもしれないけど。
孤立 したとき、目に見えて輝いてるんだなと、展示をみて、音楽を聞いて改めて理解できた。

そして、イス展にも、本気でがんばろうかな、なぞと腹を決めた。
がんばるってか、プライドを持とうかな

福井さんより

 状況・姿勢・行為の細かな設定をしデザインに反映させる

状況:場所、時間、感情
姿勢:身体 体 の骨格 どこを支える?支えない?
行為:何をするためのものか?その前後の行為は?そのイスに関わるとどうなる?

ちなみに

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道を わけるもの

空が好きですか?雲が好きですか?

星が好きですか?月が好きですか?

一人が好きですか?みんながすきですか?

自由がいいですか?守られたいですか?

収集家ですか?捨てるひとですか?

愛したいですか?愛されたいですか?

都会がいいですか?田舎がいいですか?

夜が好きですか?昼が好きですか?

男が好きですか?女がすきですか?

こどもはすきですか?老人はすきですか?

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