あるいは少なくともそれだけはできる。

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 そして、私たちは小さな断片だからこそ、自分が思う正しさを述べる「権利」がある。
それはどこか「祈り」にも似ている。その正しさが届くかどうかは自分で決めることができない。私たちにできるのは、瓶の中に紙切れをいれ、封をして海に流す事だけだ。
それがどこの誰に届くのか、そもそも誰にも届かないのかを自分ではどうすることもできない。
エミールデュルケムは私たちが「神」だと思っているものは、実は「社会」である、といった。
「祈り」が届くかどうかは「社会」が決める。
災厄をもたらす悪しき神もいる。それと同じように、社会自体が自分自身の破滅に向かって突き進むのともある。神も社会も、間違いを起こすことがある。
私たちは、私たちの言葉や、私たちが思っている正しさや良いもの、美しいものがどうか誰かに届きますようにと祈る。
社会がそれを届け聞き届けてくれるかどうかわからない。しかし私たちは社会に向けて言葉を発し続けるしかない。それしかできることがない。

あるいは少なくともそれだけはできる。

岸政彦「断片的なものの社会学」より