スラムを見よ。


改善について、建築家がとらえられる限界をこえてしまうよう、評価できない特質は、持続する余地がなくなっている。
いまやわれわれは、不潔や乱雑による不都合さに代わって、衛生的な退屈さを得た。物質的にはスラムは(たとえばオランダでは)なくなったが、しかに何がそれに取って代わったというのか。どこにもまとまりがなく延々と続くだけで誰がどこに住んでいるということには誰も関心をもっていない。最近は残らず消毒されたが。が、しかし市民は将棋盤の上の消毒された駒であり、将棋をする人ではない。だから挑戦することはないし、試合も対話もないのだ。

スラムはなくなった。だが精神に食い込んでいるスラムを見よ。

もう一度我々が新しい都市、あるいは最近の住宅開発を一見するだけで、精神がどの程度埋没されてしまったかが認識されよう。建築家たちは、そこにひび割れや裂け目を残してはいない。彼らは、角を曲がったところにある不都合な事、不測の出来事、自然発生的な作用、予定外の騒動、予測できない危険など、それらについて懸念しているにもかかわらず、場所に関する感覚をまったく追い出してしまった。
彼らは、都市計画という真空掃除機で細菌を根絶するために、すべてをまっ平らにしてしまった。 つまり建物をこぎれいな表面(その両側は空虚以外のなにものでもない)の付け足しによるつながりにしてしまったのだ。(私にはアメリカで見たこのような例について適当な言葉を見つけるのは難しい。)実際に彼ら空虚さを目指して去勢するような事をやっているにもかかわらず、そのような建築家が空間について熱心に語ることはいったいどういうことだ。
ヴァン・アイク

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